さもみた!

I'm a thermometer.

体調が悪い時に思うこと

実はここ数日ずっと体調が悪い。

初めは、頭痛と気だるさが来て(熱が出るほどではなかったと思う)、今はずっとお腹が痛い。下っ腹も痛いが、どうやら胃がやられてしまっているようだ。原因は不明。特に食あたりになるようなものは食べていない。自慢ではないが、僕は食中毒の経験が豊富だから、「今回は食中毒の時の腹痛とは違うな」というのはわかる。でも、便も普段と違うし、体調が悪いのは確かだ。もし日本にいたら、即病院に行って医者に診てもらうところであるが、不幸にも今は韓国。海外に滞在する者としてあまり感心したものではないが、保険も切れてしまっている。幸いにも今は旧正月で演劇の練習はない。家でゆっくりできる今、持っている薬で何とかしたい。けれども、全然効いてくれない。10分おきくらいにお腹に激痛が走る。声は上げなくて済む程度の。やっぱり辛いや。

 

「重病かな?」なんて考えたりする。「ひょっとして胃がん!????」なんてことまで。インターネットで検索しちゃったりもする。

 

大げさなのは自分でもわかってる。そんな可能性はほとんどないんだってこと。

 

でも、いつ死ぬか本当にわからないってことを体調が悪くてもがいている時に思うのだ。死ぬって宣告されたわけじゃないから、精神が思いっきり病んだりとか、そういうのはないのだけど、「死ぬのかな?」「死んだらどうしよう」くらいは軽く思うのだ。

 

そしたら、人生はなるべくやり残したものが少ないものにしたいって思う。お金は稼がないと生きていけない。そしてやりたいことの全てができるわけではない。そしてやりたいことがうまくいくとも限らないという何とも世知辛い世の中に生きているのだ。ただ幸いなのが、固定観念的なものはあるけれども比較的自由に生きられるのが現代だ。やりたいことをリストアップして、ざっくりした将来設計でもしてみようかな。

うーん、でも大学入ってから自分が全く想像のつかない方向に向かっているのは確かだ。あることに興味が湧いて、そこから新しいことに興味を持つ。この留学もそうだし、演劇やろうとしているのもそう。だから、将来設計したところで全然違うものになるのだろう。なんかデカいことを成し遂げたいって思うなら、時間がかかることだし、コツコツ積み上げていくことが大事なのだろう。でも、僕の場合はそうではない。

 

どちらかというと「成し遂げたいこと」よりも「なりたい自分像みたいなもの?」に自然に従って行動しているんじゃないかって思うのだ。

 

本当に大企業就職には不利だなあ。そういうところに入ってバリバリ働くこともできなくはないんだろうけど、、、かっこよく働いているおじさんとかいるけど、、、そういう人になりたいって思うけど、、、実際にそこで輝いているおじさんたちは、俺が思う「かっこいいおじさんになりたいから」そこで働いているわけじゃないんだよな。何か明確に成し遂げたい何かがあって輝いているから「かっこいい」わけだ。そういう「かっこいいおじさんになりたい」だけの僕とは本質的に違う。

まあ、だから社会に対して問題意識を持ちなさいとか言われるんだろうな。

 

ああ、腹痛い。体冷え性だし、そこまで痩せてないのに肺気胸になるし、小さい頃から頭痛持ちだし、ショートスリープは絶対無理だし、オールも大っ嫌いだし、運動やってたのに体力ないし、体が弱いのは確かだな。長く持ちそうもないから、やりたくないことに体力すり減らして死んでいくより、やりたいことに体を預けた方がいいかな。

 

こうやって、将来についてあれこれ考えるわけだけど、

結局思うのは「健康が一番」だってこと。早く体調良くなってーーー

 

 

ハマっていること

今までに何かにハマるなんてことは、小学校三年生以来ずっと続けてきた野球以外に何かあっただろうか。強いて言えば、勉強だろうか。辛抱強く続けて来たと自分でも思っている。なんという目的もなくも、続けて来られたのはそこに何らかの面白ろさみたいなものを感じていたからだろう。そして今韓国に来て自分の予想とは異なり韓国語にガチで取り組んでいる自分を顧みると、そこに何の目的もなく「韓国語が喋れるようになったら韓国人と喋れて楽しい」という単なる内的報酬のために勉強している。その流れで「外国人が韓国語でなんかやったら面白い」、「せっかく覚えた韓国語で何かしたい」そんな思いで、今の「韓国語で演劇に挑戦する」という行為に至った。(実際に韓国語で取り組んでいて感じることは多々あるがそれはまた後日)

 

で、だ。

 

なんで「演劇」なのか。

 

それは、2016年の初めくらいから、だいたい1年くらい前からだろうか。「ラーメンズ」のコントをYoutubeで見る習慣がつき、ラーメンズのコントの台本を書いている小林賢太郎の演劇作品まで時間を見つけてはコツコツを見ている。過去の「小林賢太郎テレビ」も。そして、今も全然飽きてない。コントや演劇に普遍的な材料が多く使われているし、それでいて「あ、やっぱりラーメンズだ」、「小林賢太郎さんの世界だ」、そんなことを感じさせる作りになっている。夏休み日本に帰った時には、小林賢太郎さんが書いた本を探し、いくつか読んでみた。戯曲集も読んだ。言葉の羅列がシンプルでいて美しい、そんな印象を受ける文章だった。

1月1日にはラーメンズのコント100本をYouTubeに公開し、それの広告収入を被災地復興のために役立ててほしいと日本赤十字社に寄付するという試みまで行った。男前ですよね!ほんと!周囲を説得させるの簡単じゃなかったと思うんです。

そんなこんながあって、今も演技の練習と韓国語の勉強をする傍ら、ラーメンズのコントを観る毎日だ。うん。まさにこれ、「ハマってる」よね?

なんでこんなにハマっているのか、その理由は構成、言葉、演技、キャラクター、声、舞台、雰囲気...よくはっきりしていない。けれども、鑑賞後のふわっとした気分は僕を中毒にさせているようだ。本当に一度観劇したい。日本に帰ったら行こう。

 

さて、話がだいぶ逸れたが簡単に言ってしまえば、「演劇」に興味を持った理由は「ラーメンズ」である。そして、夏終わりに留学先の大学のサークルの公演を観に行き(韓国語がわからないのだが)、目の前に立っている自分と同じ学生が演技しているのを観て、感銘を受けてしまった。「あっち側に立って観る人に楽しんでもらいたい」「そのリアクションを受けてみたい」そんな思いから入団を決意した。海外という異境の地だからこそ、心がちょっと浮ついて僕のフットワークを軽くしてくれたことも幸いしてのことだ。日本にいたら絶対にやってない。正直、人前に立って人を笑わせる、感動させることなんて、こんなちょっとネガティブで捻くれた性格をした僕の普段の振る舞いとは、全くの正反対だと思っている。自分ができないからこそ、ずっと憧れていたというのもまた真理。俳優としての経験はまったくない。おそらく今回のこんなちっぽけな経験を通して、すぐさま演劇の世界に身を投じようとは考えられないだろう。しかし、僕にちょっとした火をつけたのは確かだ。向いている向いていないに縛られず、今回の貴重な機会に全力を尽くすと共に、自分の感性でいろいろ感じたいと思っている。そうしたならば、次の行動が自ずと見えて来そうな気がする。

 

将来の不安から、そんなことを毎日自分に言い聞かせている。結局は将来に目を瞑ってやりたいって思ったことをやってるだけなのだから。楽しいけど笑。

はあ、日本に帰ったらどうするか考えものだ。 

 

小林賢太郎からのメッセージ | KENTARO KOBAYASHI WORKS | 小林賢太郎のしごと

 

小林賢太郎戯曲集―椿鯨雀 (幻冬舎文庫)

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小林賢太郎戯曲集―home FLAT news (幻冬舎文庫)

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僕がコントや演劇のために考えていること
 

 

 

新年、たくさん幸福を受け取ってくださいね!

새해 복 많이 받으세요. (明けましておめでとうございます)

韓国では、今日1月28日がお正月。

そう、旧正月です。

だからといって、特別なことはしてないのだけど、韓国人の友達はみんな家族と過ごすから僕ひとり暇ってわけ。そして、腹が痛くてたまらない。心なしか熱も出てるかもしれないってくらい体がだるい。そんな感じでだらだらしてると、これからのことによく思いを巡らすことが多い。

 

韓国での留学生活は終わったけれども、まだ韓国にいる理由。

それは演劇に参加するためなんだけど、自分としては思い切って踏み出した決断だった。今まで映画も演劇も全然見ない派だった人がいきなり舞台に立つなんか言い出すから、「俳優目指してるん?」とか聞かれるけど、そういうわけじゃない。小劇場で公演を見た時、そのハコの雰囲気、そして前に立って演技している人が涙が出るくらいかっこよかったのを覚えている。カーテンコールの時、俳優たちのやりきったというさっぱりした表情を見て、自分もあの感覚を反対側で味わいたいと思った。ただそれだけ。

先のことなんかわからないし、今回演劇に挑戦してもうコリゴリだって、やらなくなってしまう可能性もあるけど、やってみないとわからないことだから一回やってみようと思う。

そして先日、台本をもらった。

 

『テレーズ・ラカン

 

フランスの作品。苦悩を抱えた女性がある男と恋に陥ることで周りの状況が絶望に向かってゆく物語だ。僕は、主人公の女性の夫役。韓国語があまり上手ではないことを考慮してセリフは少なめにしてもらった。発音がうまくできなくてこっそり部屋で同じセリフを何時間も繰り返して練習している。あのセリフ量で頑張ったなんて言われないだろうけど、自分が自分を褒めて上げられるくらい一生懸命とりくんでやる。

 

公演は3月2日から4日まで。

大学路の小劇場で行う予定だ。

さ、気持ちを入れ直したところで今日も韓国語の勉強!勉強っと!

韓国での自己紹介

韓国生活もあと少しで1年を迎えるわけだが、やっぱり毎回毎回、自己紹介がうまくいかない。というのも、「はい、じゃあ自己紹介して~」となった時に、当てはめる自己紹介の型とでも言えばいいのか、その型が日本とは異なるのだ。

 

今日、9月に演劇部に入ったぶりくらいに韓国語で自己紹介したのだが、そのときに比べて韓国語もできるようになっているし、当たり前のように韓国人のように自己紹介くらいできると思っていた。今までは、僕が集団に突っ込んで行ったために、僕だけが自己紹介をする形式だったからあまり気にならなかったが、今回はお互いに自己紹介し合う形式で、かつ僕が一番最初に言ったために他の人との違いが明らかにわかったのだ。

 

僕がした自己紹介は、

『저는 뭐뭐이고요, 교환학생으로서 일본에서 왔습니다. 경영학을 전공하지만 한국이랑 한국어에 관심이 많아서 한국어로 뭔가를 하고 싶었어요. 여름에 연극 공연을 보러 갔더니 너무 멋있어서 이 동아리에 들어가게 되었습니다. 이 번에는 배우로 참여하겠습니다. 잘 부탁드립니다.』

 

日本語で言うと、

 

『私の名前は○○で、交換留学生として日本から来ました。経営学を専攻していますが、韓国や韓国語にたくさん関心があって、韓国語で何かしたかったんです。夏に演劇の公演を見に行ったら、とてもかっこよくて、このクラブに入ることにしました。今回は役者として参与させていただきます。よろしくお願いいたします。』

 

僕的には、悪くない自己紹介だと思ったのだが、すぐに質問が飛んできた。

『何歳ですか?』と。

 

「ああ、そうか、韓国では名前の次に年齢が重要だったんだ!」

と大事なことをすっかりと忘れてしまっていた。

 

韓国人大学生の自己紹介の始まりの型は決まっていて、

『저는 뭐뭐학과 뭐뭐학번 뭐뭐뭐이고요,~~~~~~~~』

『私は、○○学科、○○学番、○○○です、~~~~~』

だ。

この型には、自分の専攻と大学の入学年度、そして名前が含まれている。通常、この後に『よろしくお願いします』といえば済むのだ。この一文に重要な情報はすべて詰まっているということだ。もし大学でなければ、入学年度ではなく、生まれた西暦をしゃべる。

 

つまり、僕には学番はないけれど、生年を伝える必要があったのだ。

『93년생 뭐뭐입니다』

『1993年生まれ ○○です』

のように。

 

初対面で年齢を聞くのはちょっと失礼なんじゃないか、と心配に思う方も少なくないと思う。僕も決して年齢を聞いたりしない。最近は学年なんかもあんまり気にしないくらいだ。じゃあ、韓国ではなんで年齢を聞くのかというと、韓国の礼儀の文化に由来していると言われている。日本も敬語を使うが、日本の場合は歳とは関係なしに初対面であれば、敬語を使うし、場に応じた使い方をするものだ。韓国でもそうなのだが、韓国ではそれよりも年齢によって使い分けようとする傾向が強い。大学の同級生でも、相手が年上であれば「お兄さん」「お姉さん」と呼ぶし、敬語も使うのだ。日本ではあまり見られない光景であろう。歳によって、人間関係のあり方がまるっきり違うのが韓国文化なのだ。友達の中でも、この文化に対しては賛否両論だが、ほぼ全員が従っている文化なのでそう簡単に変わることはないのだろう。

 

僕は浪人も経験した上に、大学4年にもなって交換留学に来ているために、知り合う学生は必然的に年下が多い。もちろん年上に対しては敬語を使うのだが、年下だと知ったからといってそんなに態度を変える性分ではない。一方的ではなく、自然に親しくなるにはこれがいい方法だと考えるからだ。だから、とても親しい一部の年上の方に対して敬語を使わない場合もある。しかし、このスタンスには欠点もある。年下に対して、敬語だとよそよそしい雰囲気を出してしまうのだ。日本語でもそうだが、敬語は相手を配慮する言葉でありかつ、相手との一定の距離を保つ言葉でもある。僕は相手の態度に依存して、自分の態度を決めてしまうきらいがあるために年下相手にはうまくいかない場合も多々あるのだ。おそらく後輩も僕に気を使っている状態なのであるから、先輩である僕から緊張を解いていかなければならないのだろうが、あまりうまくできない。

今回の演劇のプロジェクトでこれを克服できたら幸いだ。2ヶ月のプロジェクトは今日始まったばかりだ。明日から本格化する練習に向けて、気合いを入れ直しつつ、人との関わり方について見直したい。

今日は、韓国での自己紹介と、それに関連するちょっとした個人的な話でした。

 

 

1年の初めに1年の振り返り方を学んだ

2017年になって一週間が経った。

さっぱりと一年のスタートを切りたかったけども、

まだだらだらと2016年を引きずっている感じだ。

 

例年に増して楽しかったことも多かったはずなのに、総じて悲しい年だったと振り返ってしまうし、その悲しさから抜け出せていない。一年という短いスパンを振り返ると、楽しかったこと嬉しかったこと悲しかったこと寂しかったことムカついたことが様々なタイミングでごちゃ混ぜに入り組んでいることがわかる。楽しかった思い出と悲しかった思い出に時期的な差はほとんどないから、楽しかったことを振り返ると、「ああ、その頃こんな悲しいこともあったな」と考えてしまうのだ。昨年は僕にとって、辛い思い出が痛烈だったから、今はそういう風に一年をまとめてしまうのかもしれない。

 

友人たちのフェイスブックの投稿を見ていても、ポジティブに一年を振り返っていて(ポジティブを装っているだけかもしれないが)、「いい年だったんだなあ。いいなあ。」と少し羨ましい気持ちになる。正直、留学も経験したし、僕にとって特別な一年だったので、文章をこしらえて多少の報告をしたかったのだけれど、どうしてもネガティブな感情が沸き起こって、読み手が不愉快に思うものしか書けそうになかったので断念した。

 

そんなこんなで、静かに年末年始を過ごしたわけだが、2017年は辛いことがあってもなんとかポジティブに終わりたい。感謝して終わりたい。そんな気持ちがあった。

 

いろんな人の投稿を見ていく中で、「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」という風習?について知った。


「七味五悦三会(しちみごえつさんえ)」とは、江戸時代の風習で、

除夜の鐘を聞きながら

- 今年食べて美味しかったもの7つ、

- 今年楽しかったこと5つ、

- 今年会えてよかった人3人

を家族と話しながら1年を振り返るというものだ。もし全て満たされたならば、「良い年だった」として、その年を終えるのだ。

 

これは本当に良い風習だなと思った。ただ1年を振り返るんじゃなくて、ポジティブな枠を作ってその中で1年を振り返るのだ。家族と一緒にやるのもまた良いところだと思う。まだやってないけど、生きていることに感謝できそうだなと、ブログを書きながらふわっと感じている。(美味しかったもの、会えてよかった人はちゃんと考えてなくても両手に収まらない数が出てきそうだ。楽しかったことが微妙かもしれない...でもちゃんと振り返ることはしない。去年のことは。)

 

もし、2017年を「七味五悦三会」に倣って振り返るならば、今から時間を無駄にはできないと思わされた。昨年のことでくよくよしているのも、ほどほどにしなければ...

2017年が「七味五悦三会」を思い浮かべるのに困らない年になったら嬉しい。

前を向いて歩こう。