人間疲れと孤独
よく「人間関係に疲れた」「一人でいるのが楽」という言葉を聞く。
僕もそんなことを感じることが多々ある。ただ大概こういうことを言っている人は「孤独」を求めているように思えるけど、結局のところ「孤独」をものすごく恐れている人なんだと思う。ちょっと言い換えてみると、「孤独」から逃れるために独りを求めると言えるだろうか。
というのも留学に来てから、「人間疲れ」と「孤独」を顕著に感じること場面が多くなったからだ。言語の壁があって意思疎通に大きな障害がある中で人間関係を気づくには、少々大げさにアクティブになる必要がある。また母国語に比べれば話の内容の浅くなるし、文化の違いもあってか自分の本当の考えを吐露する機会がほとんどないと言えるだろう。(ただ、人間関係の良し悪しは言葉の流暢さで決まるわけではないことは声を大にして言いたい。)そういう生活を続けていると友人と話していても、何か心につっかえ棒のようなものを感じつつ、心を通わせることができなければ寂しくもあるということだ。似たようなことが言えるのは、おそらく、大学や会社に入るというような新しい環境に身を投じるときに感じることが多いかもしれない。
もちろん、人間疲れや新しい環境から受けるストレスの要因には、さまざまなことが考えられるが、場の空気とか対人関係を円滑にしようと細かに気を遣う一方で、自分が楽なコミュニケーションから程遠いものになってしまうことで、ふとしたときに気が落ち込むことはないだろうか。
そんな時に、一人でいる時に気が楽に感じたりすると人と関わるよりも一人でいた方がいいんだなんて思ってしまうこともあるだろう。
僕なんかはその典型でただキャピキャピしてるだけで、仲がいいなんていうのは何かのまやかしだと思ってるし、そんなテンションを保つだけで疲れてしまうような口だ。だから、どちらかというと一人でいるのが好きなんだろうなと自己認知していた。
しかしだ。
自分のメンタルがキツい時、誰かとあまり話したくないと思うと同時に、ただただ楽しく遊んでくれる友達に会いたいと思うのだ。本当に辛いとき、理解なんてしてほしくないから、なんでもいいから寄り添ってくれる人を求めてしまう。ということに気がついた。
つまり、「独り」になりたいと感じる時は、まだそんなに深刻に辛い状態でもないし、むしろ誰かがいる状況にワガママを言っているだけで、本当に辛い時には誰かの救いを求めている。ただめんどくさいのが、そのSOSは自分で発することをせず、「察してくれ」というワガママの真骨頂である。そんな時に声をかけてくれる周りの人には本当に感謝しなくてはいけないだろう。
まとまりのない文章だが、無理やりまとめたいと思う。
人間関係がうまくいかず、孤独を感じることもあるし、自らその孤独から逃げるために、自分から孤立するという形をとって孤独から守ろうとする。人と関わっているのに寂しい感じがするし、家に一人でいてもなんだか寂しい思いをし、「俺ってなんて孤独なんだろう」って思ってしまうのだ。そんな時は、自分に対して親切にしてくれる人さえぞんざいに接してしまうことが多い。心の温かさを感じ取ることができない。しかし、心の中ではそんな人たちを求めている。求めているのに避けてしまったりしている。僕の心なんて全部理解しなくていい。辛い時に「会おうよ」「ご飯食べに行こうよ」なんて声をかけてくれる友人がいるだけで十二分に幸せなのだ。そういう友人なら時には雰囲気を察して「大丈夫?」と心配してくれたりもするだろう。それは感謝に値する。
この面倒臭い人間関係があってこそ、人間は生きていけるのだ。
おそらく、このテーマに関してはこれからもっと考察する機会があるだろうから、今日はこの辺にしておこう。
本当に海外に行ってる場合か?2016の最後に
今年は、大部分を海外で過ごすことになった。
韓国での1年留学やその他旅行を含め、半分以上を海外で過ごした。2月後半から7月初旬まで韓国。そして7月下旬から8月中旬まで東南アジア。そして、8月下旬から12月末までまた韓国。
故郷を離れて生活するのはこれが初めてではないけれども、海を渡って生活することに対する認識は、行く前を帰ってきた後ではまるっきり違うものになった。
外国は日本に比べたら、そりゃ治安は良くないし危ないかもしれない。もちろん言葉の壁もある。食事が口に合うかもわからない。行ったばかりじゃ近くに頼れる人もいない。文化も違えば、普段の暮らしに違和感も覚えるだろう。同時にこれらのハードルを乗り越える過程でそれが日々を新鮮にもしてくれるし、新しい貴重な出会いを与えてくれる。
海外での生活は、自分次第で良いものにもできるし、実りのないものにもできる。それならば、今しかできないことなのだからやってみようと。
僕は行った先のことばかりで夢が膨らんでいたのだろう。
しかし、現実は違う。世界の時計は自分と離れているところでも進んでいた。ともに暮らしていた祖母と祖父ともに別れを告げなければならなくなった。(実際は今もそれが信じられないでいる)想像が困難であることではないはずなのに、自分がこのタイミングで海外にいるというのはなぜが思いもよらなかった。大切な人に何かがあったときにすぐに行くことができない。会いたい時に会えない。そんな当たり前のことを捨てながら生活を送るのが、故郷を離れて暮らすことなんだということを留学をして初めて知った。
幸いだったのは、2人とも別れの前にちゃんと会話をすることができたこと。
また、海外で友人もなくした。
SNSを通じて様子を確認していて、もうじき会えるのだろうと思っていた矢先のことだった。海外が危ないからと言って、まさか自分が危険な目に合うはずがないと高をくくって行動したことがないかと言えば、ないとは言えない。行ったきり帰ってこない。この悲しみを僕は海外に滞在する責任として、周りの人に与えてはならないと、彼は教えてくれたのだろう。
留学を決意する前あたりから、「海外で働けたら」とぼんやりと考えていたり、友人にぼそっとそのようなことを話していたことがあった。しかし、自己責任だからやったらいいという安易な考えは消え去った。そして、本当に自分が海外に出てまで仕事をしたいのか本気で考えなければならないと再認識させられた。
そう、僕は海外に行ってていいの?そんな場合か?
自分がやりたいことをやると同時に、捨てているものへ思いを一旦巡らせてみることは思ったよりも重要なことかもしれない。そして、そんな思いに逡巡している僕を後押ししてくれる人に感謝をしなければ・・・
2016年は、本当に特別な年になった。特別な年にするつもりだったし、その予想をはるかに超えて特別な年になった。何か書きたいと思いつつも、人に見せるものを書くとなるとその思いが削がれてしまうような日がほとんどだった。今日も本当はそう。来年は今年できなかったことをしっかりやりたい。このブログもそう。
「大切はものは目に見えない」
今日読んだ『星の王子さま』の引用で今年を締めくくりたい。
来年もきっと特別な年になる。大切なものをしっかり心で見極めるんだ。
発展しているようでやはりカオスなマレーシア(1)
7月末に5日間ほど、マレーシアの友達に会ってきました。
マレーシアでは、一人バックパッカーをしたというよりも、
その友達に車でいろんなところに連れて行ってもらったという感じ。
クアラルンプールの郊外にあるクランという街に住んでいて、
基本的にずっとそこに滞在していました。
マレーシアはタイやベトナム、カンボジアに比べて観光地という観光地は少ない国ですが、雰囲気はそれらとはかなり異なりフラフラしてると面白い点も多いと思います。
もっとも特徴的なのは人種構成でしょうか。
マレーシアの基本情報から見てみましょう。
なんかの授業みたいですが、今後の旅行記もこのスタイルにするかは未定です。笑
マレーシアの基本情報
外務省より情報を仕入れてきました。
面積:日本の約0.9倍
人口:約3000万人
首都:クアラルンプール
民族:マレー系(約67%)、中国系(約25%)、インド系(約7%)
言語:マレー語、中国語、タミール語、英語
宗教:イスラム教(61%)、仏教(20%)、キリスト教(9%)、ヒンドゥー教(6%)
こんな感じです。民族、言語、宗教を強調しましたが、これらはすべて異なる文化が共存していることを示している数字であると言えるはずです。
僕の友達は、中国系なのですが
民族によってライフスタイルも違うという話を聞きとても興味深かったです。
多言語を操るマレーシア人たち
映画館に行くと、マレー語、タミル語、英語の字幕が流れるそう。ちなみに映画は500円もしないそうで羨ましい限り。
中華系マレーシア人の言語能力がハンパない
中国系の、特に若者は、3から5言語ほど操ることができます。
まずは中国標準語。
これは家や中華系の学校で使う。
次にマレー語。
公用語なので日常生活で使用する。
英語。
マレーシアの経済は、マイノリティの中華系が担っている。中華系の人々は教育熱心で幼い頃から英語の教育を受けている。ラジオやテレビも英語の放送を聞く。
そして、
中国の方言。
広東語や福建語、台湾語などなど。親や先祖の地元の言葉を家で使うことも多く、主体的に中国語の勉強をしている人(友達の妹はそうだった)は複数の方言を自然に操ることができるほど。
英語も韓国語も不自由は僕からしたら、複数の言語を自分のものにできるなんて夢のような話に思えてしまいますが、環境がそうさせるのでしょう。
自分の身を置く環境というのは、何事においても重要かもしれません。
マレー系マレー人はムスリム
ラマダーンと呼ばれる、イスラム教の断食文化は知っていますでしょうか。
断食の期間は、日が出ている間、つまり、日の出から日没まで食事を摂ることができない。ただ、夜の間は食事を摂ることができるので完全なる断食というわけではありません。
友達から面白い話を一つ聞いたのシェアさせていただきます。
あるマレー系の親子がマクドナルドの席に座っていました。食事に手をつけず、じっとしているので、変だと思っていたら、ふとした瞬間に食べ始めたそうです。
そうです。日没の時刻を待っていたのだそう。ラマダーンの時期はそんな光景が見られるのか!と。
なんか「待て!」をさせられている犬のようで可愛いですが、一緒に暮らしている人々皆が同じ文化を共有しているわけではないので、問題もよく起こるそう。
ラマダーン期間中の人の前で、美味しそうにごはんを食べてたら喧嘩になったりとか。
まだまだ、マレーシアの暮らしに関する知識は乏しいですが、
もっと知れたら面白いと思いました。
やっぱり留学中でも、人種で固まってしまう傾向があるし、
それは言語なのか見た目なのか、
異なる文化圏に住む人々と共同生活を送ることへのヒントが隠されているような気がします。
日本も国際化国際化とうるさくなってきましたし、外国人が入ってくるなかで
それに対してどう向き合っていくのか。国家や企業だけでなく、個人レベルでも考える必要があると思います。
今回はこのくらい。
遊びに行ったところについてもちょっくら書いていきたいと思います。
チキン+メクチュ(ビール)=チメク
僕は、韓国にある成均館大学というところに通っています。
成均館大学は大学路というところにあるんですが、
芸術の街と呼ばれ、多くの劇場やカフェを持つオサレな街です。
大学側でチキンを食べてきたので、今日は韓国に住んでるとよく行くことになるチキン屋さんについて書きたいと思います。
※骨抜きにんにく醤油味のチキンと2700ℓのビール:全部で22000ウォン(約2000円)
本当にチキンしか売ってない!
韓国には、チキンチプ(치킨집)と呼ばれるチキン屋さんがたくさんあります。
道を歩いてるとそこらへんに転がっています。
友達に聞くと美味しいチキン屋さんと美味しくないチキン屋さんがあるそうなのですが、味覚障害気味なので未だにチキン屋さんの味の差をそこまで把握できていないのが正直なところです。笑
しかも、どの店も同じような種類のチキンしか売ってないですし、どこに差があるのかいまいちわかっていません。
ただびっくりすることもあって、どの店もチキンと飲み物しか売ってないということ。
テイクアウトの店でもないし、普通に店内で食事する店なのに他に頼むものがない!
米を一緒に食べる趣向がおかしいかもしれないが、米さえない。
これでよくも経営が成り立つなと。
むしろ、チキンに専念しないと経営が成り立たないのかもしれないです。
一言言えるのは、韓国人はチキンが大好きだということ。
チメクとは
韓国では、食べ物とお酒の組み合わせに名前がついていることが良くあります。
数種類ですが。
今日は、チメクの説明をしたいと思います。
チメクというのは、チキンとメクチュ(ビール)の頭文字をとってつなげたものです。
韓国語でビールは、맥주(メクチュ)と呼ばれます。
だから、チキンとビールの組み合わせを
チメク
っていうんですね。
韓国語で書くと、もちろん치맥(チメク)です。
言われてみれば、チキンと焼酎やマッコリを一緒に飲み食いしたところで、
あまり美味しそうではないなと。
けれども、ビールは何にでも合うのではないかと考えてしまうのは
味覚障害者だから?
チメクは店だけで楽しむものではない
チキン屋さんのほとんどはペダルと呼ばれる出前サービスを行っています。
韓国の出前文化は発達しており、
どこにいたとしても届けてくれます。
有名なのが、ハンガン(한강)という川でチメクの出前を頼んでも、しっかりと届けてくれるという話です。
ハンガンというのは、ソウルの中心を流れるとっても大きな川で、河川敷の公園のエリアがいくつかにわかれているとは言え、一つのエリアもとても大きいため、ちゃんと届くなんて信じがたいですよね。
だけど、届きます!
外出先でも出前をとるという韓国の文化はとっても面白いです。韓国語ができないと厳しいですが、韓国に来たら是非ハンガンに行ってチメクをしてみると楽しいと思います。
ハンガンについての記事も追い追い書けたらと思います。
今回はこのへんで。
Profile
さもみた(由来:本名→ブラックボックス→おんどけい→Thermometer→さもみた)
東京国立のとある大学に通う文系学生。でも、数字をいじくる勉強をしている。4年次に韓国へ1年間の交換留学を経験する。就活を直近に控えるも、韓国で演劇活動に没頭中。お先真っ暗の落ちこぼれ学生である。
少々ネガティブであると自覚しているけども、少しでもよい方向に歩みを進めたいといいう思いでブログを書く。自分に発信願望があるのかさえ、未だにわかっていないが、何かを書きたいという思いはあるようだ。「しょーもないこと書いてんな、こいつ」と思ったら、何かアドバイスを残していただけたらありがたい。今までに意識高くブログを書こうとして、挫折に挫折を重ねている。大学に入学した時、留学を始めた時。そして今回が3回目。自分に向いてないとわかりながらも、懲りないという底なしの執着心に関しては自分でも褒めたいと思う。
なんの宣言をするわけでもないのだが、黒歴史を作るつもりでどんなにブランクが空いても卒業するまでは、このブログを捨てないでおこうと思う。
(2017年1月更新)